
朝日新聞・高橋純子氏のコラムに批判が集中しています。
批判内容は、主に「表現の下品さ・感情的過ぎる自民党批判」「政治的中立性を欠くイデオロギー的文章」「首相個人への攻撃やレッテル貼り」という3点に大きく整理できます。
高橋氏は朝日新聞の政治部出身で編集委員・論説委員を務め、「多事奏論」「政治断簡」などのコラムを担当してきた政治記者です。
かつて「反安倍」色の強いコラムで知られ、「だまってトイレをつまらせろ」や「スケベはスケベを呼ぶ」といった挑発的な表現を紙面で用いて、大変な批判を浴びてきました。
安倍政権を批判するコラムでは、読者から「下品な」「中学生みたいな文章を書くな」といった批判が寄せられました。
別のコラムでは、東条英機を扱った映画のセリフ「バカな野郎」を引きつつ、安倍政権やその支持層をこの文脈に重ね、「浜の真砂は尽きるとも世にバカな野郎の種は尽きまじ」といった表現で、安倍政権やそれを支える政治家を「バカな野郎」と暗に位置付けていると指摘されています。
大手全国紙の紙面で用いる表現として、「品位を欠く」「政治的論評ではなく罵倒に近い」との批判があり、特に「中学生レベルの悪口」「ヘイトスピーチと変わらない」と評される向きもあります。
高橋氏のコラムは、論拠を積み上げるよりも、侮蔑的な比喩と感情的なレッテルで相手を貶めているという指摘があります。
保守系シンクタンクや評論家からは、政権とその支持者を「バカな野郎」扱いすること自体が、特定の政治的立場を持つ集団に対する憎悪表現に当たるのではないかという批判が出ています。
朝日新聞自身が一般論として「ヘイトスピーチ」を強く批判している一方で、自社紙面では「政権支持層」を愚弄するような表現を許容している点を、「ダブルスタンダード」と指弾する論調も見られます。
高橋氏は、安倍政権期のみならず、岸田首相や高市早苗氏ら自民党系政治家を厳しく批判するコラムを継続的に書いており、「現首相に対する個人的な敵意や憎悪に近い」と表現するブロガーや論者も現れています。
「政権批判」ではなく「政権打倒運動のアジテーション」や「与党に対する悪意ある決めつけ」が多く、事実関係のバランスを欠くという指摘もあります。
全国紙の政治面・オピニオン面のコラムである以上、一定の立場を持つ評論であっても、事実の扱い方や論理の組み立てに「ジャーナリズムとしての節度」が必要だとする立場から、「朝日新聞の名前で出す文章としてはあまりに偏向している」との批判があります。
高橋氏は、自身の文章が「政治部次長らしくない」といった社内外の批判を受けてきたとしたうえで、「肩書や性別などに基づく『らしさ』を踏み越えてこそ、書き手独自の文章が立ち上がる」と語り、「批判はスルーよりありがたい」としつつ、自らのコラムは「常套句を疑い、言葉を揉みほぐす」試みだという独自の主張を繰り返しています。
しかし、その言葉の解体の仕方が、しばしば相手の人格攻撃や蔑称に流れがちで、分析より先に揶揄や嘲笑が前面に出るという指摘があります。
言葉を「揉みほぐす」と言いながら、自分の嫌う政治家や支持者には極端にラベリング的な言葉である「バカな野郎」や「スケベ」を使うため、「他人には厳しく自分には甘い言葉の批判者」という自己矛盾を感じる読者もいるとされています。
批判の中には、彼女のイデオロギーそのものに反発したものと、表現スタイルやジャーナリズムの規範からの逸脱を問題にするものの両方が混在しており、「安倍・自民に対する態度」により、特殊左翼層以外の一般層からは批判を浴びやすい人物です。
2026年6月20日に掲載された「加速する『高市ブルー』 民主主義の土台揺るがす首相の雑すぎる答弁」というコラムへの批判も、内容そのものよりも「書き方」と「論証の粗さ」に集中し、特に政治批評としての中立性や品位を欠くという反発が強いです。
冒頭の「高市ブルー」や「ポテトチップスのパッケージが白黒に見える」といった表現は、ユーモアというより感情先行・煽情的だと受け取られやすく、「雑すぎる」や「滅!」などの断定口調は、論評ではなく罵倒に近いとされます。
政治家の答弁を批判するにしても、冷静な事実整理より先に印象操作が前面に出ているという批判があります。
「民主主義を揺るがす重大疑惑」と強く言い切る一方で、本文では「事実関係には不明な点もある」としており、断定と留保がちぐはぐです。
これを「推定で首相本人を強く糾弾している」と見る批判や、記事は疑惑の中心を高市首相に置いていますが、実際にどこまで首相本人の関与が確認されているのかが不明瞭なまま、責任を極大化しているという反発があります。
「創作を疑われても仕方のないレベル」という表現は、事実認定ではなく、相手を嘲笑する修辞に見え、政治記事としては反証可能な形で問題点を示すべきだという批判があります。
このコラムに対する批判の核心は、権力監視の文章としての厳密さより、批評家の感情や立場が前に出すぎている点です。「高市批判」自体が問題というより、その批判の仕方が、論証ではなくレトリックに寄りすぎているという見方があります。