
高市首相陣営が対立候補を中傷する動画を作っていたと週刊文春が騒いでいる件について、文春側がまた新たな「証拠」を報じました。
今回は《“中傷動画”の新証拠》として、高市首相秘書の木下剛志氏と動画作成者とのZoom会議音声を入手したとする内容です。
しかし、この一連の報道については、疑惑の内容以前に、報道のあり方に対する批判が強まっています。
文春はこれまで、「67通のメッセージ」「LINEのやり取り」「裏選対の日報」「関係者証言」など、さまざまな証拠の存在を次々に報じてきました。
しかしそれらは全て、読者や第三者が直接検証できる形では公開されていません。
報道を読んだ国民が実際に確認できるのは、文春が都合よく抜粋した内容や要約された説明です。
つまり、「証拠がある」という主張は繰り返される一方で、その証拠そのものを独立して検証することは困難な状況が続いています。
今回のZoom会議音声についても同様です。
もし本当に重大な意味を持つ音声であるならば、全体を公開しているはずです。
文春が前後の文脈を含めて第三者が確認できる状態にしないことについても、激しい批判がなされています。
公開されているのはあくまでも一部の抜粋や説明であり、単純に文春の改ざんと独自の解釈を信頼しろという話にしかなっていません。
もちろん、取材源保護などの事情がある場合もありえます。
しかし、それと「決定的証拠がある」と強く主張することは別問題です。
政治的な影響が大きい案件である以上、報道機関にも相応の説明責任が求められます。
さらに気になるのは、第三者が簡単に作成できる「新証拠」なるものが次々と小出しにされていることです。
第1弾、第2弾、第3弾と続き、今度はZoom会議音声です。
もし本当に決定的な証拠がそろっているのであれば、最初から包括的に提示した方が真相解明には資するはずです。
しかし実際には、「次は何が出てくるのか」という形で報道が続いています。
その結果、世論は証拠そのものを検証するのではなく、「新証拠」という見出しに反応する状況になっています。
ここで思い出されるのが、2006年の永田寿康議員によるメール事件です。
当時も、「決定的な証拠メールが存在する」と大きく報じられました。
しかし最終的には証拠の信頼性が崩れ、最終的に、これをもとにして国会で堀江氏等を激しく追求した永田寿康氏が逆に自殺にまで追い込まれるなど、日本政治史に残る問題となりました。
もちろん、今回の文春報道が永田メール事件と同じであると断定することはできません。
文春が本物の証拠を保有している可能性もわずかですがありえます。
しかし、永田メール事件が残した教訓は今も変わりません。
重要なのは「証拠があると主張すること」ではなく、「証拠が第三者による検証に耐える形で示されていること」です。
報道機関への信頼は、「私たちを信じてください」という主張によって成立するものではありません。
資料を可能な限り公開し、検証を受け、その結果として事実であることが確認されることによって成立するものです。
今回の問題で本当に問われるべきなのは、高市氏側の責任ではありません。
立証責任は、問題が「”ある”と主張している」文春側にあります。
「決定的証拠」を繰り返し報じる文春自身が、その証拠をどこまで公開し、どこまで国民の検証に委ねる意思があるのか。
その点こそが、いま厳しく問われています。